ご覧になれない場合はこちら

 
文化と歴史・古墳・街道                                     

玉村町の紹介   ●軍配山古墳 玉村町の紹介


 烏川に沿い川井から八幡原まで4世紀から7世紀にかけてできた古墳が数多く、ありました。軍配山古墳は
 竪穴式の円墳で古墳時代の初期に作られたと推定されています。軍配山古墳

 昭和5年の発掘の際、漢鏡等多くの出土品が見られたことから肥沃な農耕地を
 支配した豪族の長を埋葬したものと思われます。

 軍配山の名は天正10年(1,582年)の神流川合戦に滝川一益がここに陣をしき
 軍配を振るったというところから付けられたと伝えられています。(角淵)


 

  ●梨ノ木山古墳


 梨ノ木山古墳は二段築造の円墳として残存していますが前方後円墳の後円部であったものとも推測され
 ます。梨ノ木山古墳

 築造年代は5世紀〜6世紀と推定され昭和41年の発掘では二重の堀をめぐらせた
 広大な墓であることがわかり、滑石製模造品・円筒埴輪破片等が出土しました。

 軍配山と並んで地方の支配者の墓と推定されます。(下茂木)


  
 

  ●例幣使道


 徳川家康の霊が久能(静岡県)から日光に改葬され、以後京都の朝廷より日光東照宮へ奉幣の勅使が随時
 派遣されていました。

 正保四年(1,647)より4月の春の大祭に毎年奉幣使が派遣されて慶応三年
 (1,867)まで二百十一年間一回の休みもなく続けられました。

 この勅使(例幣)は四月一日京都を出発し、中山道を通り倉賀野から玉村に来て
 (四月十一日泊り十二日出発)、五料宿で利根川を越して日光に向っています。 

現在の例幣使道           

 この街道を江戸時代は日光例幣使道と呼んでいました。

 その頃の玉村は本陣と問屋、旅籠が軒を並べ、五料宿には関所があり問屋や河岸も
 あって交通の要衝としての機能を果たしていました。

五料の関所跡 






 

[Home]