昔、天慶年間(938−46)沼田のんだ(今の柴八斗島の総称、西は沼之上今の五料に対する処)の庄の地頭
に美しい娘がいたが錦野の里(今の玉村を中心とした滝川・上陽の一部・芝根等の総称)の若者と相思相愛
の仲になった。
彼女の美貌が将門の権に媚びる土豪の目にとまり、彼女を将門の待妾に送ろうと企まれた。 親の地頭は
それとさとり、娘をひそかに若者の許に走らせた。
すると土豪の追手が大勢錦野の中を流れる矢川のほとりでこれを捕らえようとした。娘は進退きまわり、矢川
の急流に身を躍られて自らの命を断った。
この時急を救おうとかけつけた若者も後を追って同じ矢川に身を投げて死んだ。
その後、この川の流れに二つの光る碧玉がしばしば漂うのが見えた。村人は考えた。
この娘はきっと「龍人」の変化で、玉は「龍人のあぎとにある玉精であろう」 と、そこで二人の霊を慰めようと玉
を近戸大明神に祀った。
後、矢川は年々の洪水で川幅が広がり明神は移り、利根川の大洪水で龍神が現れ、碧玉の1つを奪って行
った。残る一つは今の満福寺に奉ってある。
龍の玉のために出来た村から玉村と呼ぶようになったとされている。
桜の咲く頃の満福寺
満福寺では毎年桜のころ、茶会が開かれています。
●語源学的
東京都の多摩川の「多摩」と、玉村の「玉」は同義でアイヌ語のtamak,tamau(共に沼地・粘土の意)五料を中心
とした芝根地方を沼田のだとか沼之上と称していた。
古代は利根川水流を代表例とした赤城南山麓を傾斜して流れる水が広域の玉村付近で溜り沼沢地を形作っ
ていたことでしょう。「たまり」「たまる」の語尾は脱落すれば「たま(玉)」となり川では多摩川、村では玉村となる
のである。
玉村は古代、東国上毛の国でいち早く開けたところでした。それだけ地の利のよいところだったことが災いし て、戦国時代は合戦の場となり荒れはてていました。そこで関東地方を支配した徳川氏は地方の開発に乗り 出します。 そのとき関東郡代(関東の代官)となった伊奈備前守忠次は、このあたりの荒地を開拓しようと、前橋の総社ま で引かれていた天狗岩用水を、はるばる玉村まで延長しました。 (滝川用水)完成は1,610年(慶長15年)のことでした。この滝川用水によって、今の玉村町の中心部である 上新田・下新田がひらかれ、集落がつくられたのです。 滝川用水 |
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